古代中国の戦国時代を描いた物語と言えば「三国志」。
日本国内での知名度も高く、歴史に興味がなくとも一度は耳にしたことがあるだろう三国志は、マンガやアニメ、小説だけに留まらず、長編ドラマ化や映画化など、さまざまなメディアで展開されて多くの世代に親しまれている実話です。
物語は、古代中国の三国時代(220年〜280年頃)を舞台にした魏・蜀・呉の三国鼎立(ていりつ)から、三国統一を果たすまでのストーリーですが、実は三国統一後のストーリーについては意外と知られていないのが実情。約60年弱も続いた争いを制して統一を果たした国が、わずか30年足らずで滅びるに至った第2のストーリーをご紹介していきます。
三国志の結末概要と三国統一した司馬一族のその後
時代や国境を超えて後世に語り継がれている三国志。その主な登場人物と言えば、日本国内で主役的な位置づけとされている蜀の皇帝「劉備(劉玄徳)」、そしてその軍師であった「諸葛亮(諸葛孔明)」、その他、悪役的なイメージの強い魏の皇帝「曹操(曹孟徳)」、そして最後まで孫劉連盟を貫いた呉の皇帝「孫権(孫仲謀)」、魏・呉・蜀の三国、三人の君主が覇権を争った戦国時代のストーリーとして知られています。
三人の君主はそれぞれ、忠義を重んじ民衆に愛された劉備、目的達成のためなら手段を選ばない曹操、先代を重んじて継業を成すことに重きをおいた孫権、それぞれ個性豊かな君主が様々な思惑のなかで同盟や争い・裏切りを繰り広げるその人間模様が見どころのひとつとなっています。
一方、意外と知られていないのが「三国志の結末は結局どうなった?」という点。
結論から言えば、曹操率いた「魏」が滅んだあとに建国された司馬一族率いる「晋(西晋)」が呉を討伐し、西暦280年に悲願の三国統一を成しました。
晋が建国された265年頃になると、三国志における主要な登場人物のほとんどは他界してしまっていますが、曹操の右腕とも言える存在だった軍師・司馬懿(しばい)は司馬一族の家長、そしてその息子である司馬昭、晋を建国したのが司馬昭の子にあたる「司馬炎(しばえん)」といった具合に、長らく魏に仕えた家臣が魏の王位を簒奪して三国を統一したという結末は、皮肉にもハッピーエンドとは言えないかもしれません。
魏の帝位を禅譲によって晋を建国した司馬一族ですが、建国者である司馬炎の没後は、後継者争いや豪族による勢力争いが各地で再燃。西暦265年の建国から50年、280年の三国統一からわずか30年強となる316年に晋国は滅んでしまいました。三国志のゴールが「三国統一」とするなら、それを実現したのは司馬一族三代で権力を継承した晋ですが、その後は内乱によって、中国は再び分裂状態になったというのが結末になります。
統一後わずか30年足らずで滅んだ原因
司馬一族による三国統一までのプロセス
-
263年: 魏によって蜀が滅ぼされる蜀漢の皇帝劉備の子「劉禅」が降伏して蜀は魏に吸収される。この時点で、呉と魏の二国志状態になる。
-
265年: 司馬炎が魏から王位を簒奪して晋を建国(魏が消滅)司馬炎を筆頭に晋は三国統一を目指す。
-
280年: 呉の討伐開始同年、呉の皇帝孫晧(孫権の孫)が降伏して呉は滅亡、三国統一に至る。
260年以降は、わずか20年弱のあいだに蜀漢が消滅、魏も消滅、晋が誕生し、呉も消滅といった激動の時代となる訳で、当然三国統一後は国も安泰し、争いのない年月を過ごすのかと思いきや、そうはならなかったのです。
ここから先は、晋が滅びるまでのプロセスを簡単にまとめます。
- 290年: 初代皇帝「司馬炎」が死去
-
291年: 八王の乱が起こる司馬炎の後継者問題により、司馬氏の王族間で骨肉の争いが起こる。八王とは司馬王族八士を指し、この争いは306年まで続く。
-
306年: 八王の乱は一旦収束する。同年、呉の皇帝孫晧(孫権の孫)が降伏して呉は滅亡、三国統一に至る。
- 316年: 新たな外部勢力(五胡)に侵入され晋が滅ぼされる。
このように時系列でみると、三国統一を果たした晋国は、わずか36年で国自体が滅んでしまい、再び中国全土が分裂、英雄が割拠する時代に戻ってしまったわけです。晋の滅亡の直接的な原因となったのが、司馬炎の死去後に起こった後継者争いとなりますが、上記「八王の乱」における八王とは、すべて司馬一族の身内で固められており
八王の乱における八王一覧
- 司馬亮(しばりょう)[汝南王]−司馬懿の三男、司馬昭の異母弟
- 司馬瑋(しばい)[東海王]−司馬炎の子(皇族として権力争いに参加)
- 司馬倫(しばりん)[趙王]−司馬懿の九男、司馬昭の異母弟
- 司馬冏(しばけい)[斉王]−司馬炎の弟、司馬昭の三男司馬攸の子
- 司馬乂(しばがい)[長沙王]−司馬炎の十七男
- 司馬穎(しばえい)[成都王]−司馬炎の十九男、司馬乂の異母弟
- 司馬顒(しばぎょう)[河間王]−司馬懿の実弟・司馬孚の孫
- 司馬越(しばえつ)[東海王]−司馬懿の実弟・司馬馗の孫
身内ばかりを登用するかつての「曹家」と同じ轍を踏んでしまったことが内部抗争を招いたと言えます。
家長であった司馬懿は、皇帝曹叡(曹丕の息子・曹操の孫)の時代に常々「身内だけを重用する」と嘆いていましたが、実際には司馬懿の子孫も曹魏時代の教訓が生かされず、晋政権も身内ばかりを重用し、さらには八王一族に軍権をも与えてしまったことで反乱を引き起こす引き金となりました。こうして晋国はわずか30年程度の短命で滅びることとなりました。
最終的に北方の異民族に滅ぼされたこの異民族とは?
前段でも触れましたように、晋は長引く内乱によって徐々にその国力は低下していくことになりますが、これに乗じて勢力を拡大したのが、中国北方や西方から移住してきた非漢民族である五胡(ごこ)です。五胡とは次のような少数民族を指します。
- 匈奴(きょうど)−中国北方の遊牧民族で騎馬戦を得意とする
- 鮮卑(せんぴ)−北東アジアの遊牧民族
- 羯(けつ)−北西アジアの異民族
- 氐(てい)−現在の四川省や甘寧省など西方の民族
- 羌(きょう)−西北の山岳地帯の遊牧民族
五胡は司馬一族が骨肉の争いを講じているなかで、北方を中心に徐々にその支配勢力を拡大。次々と国家を建てて中国北部を支配(五胡十六国時代)していき、最終的に晋の都(皇帝が居住する宮廷がある都市)である洛陽を陥落させるに至ります。これを「永嘉の乱」と呼びます。
三国志のストーリーのなかで、漢民族以外の異民族が登場してくると何か違和感を覚える部分ではありますが、実は古くから漢民族以外の異民族は大きな戦に登用されており、例えば、劉備三兄弟の一人「関羽」が呉に殺害され、その報復として呉の討伐に遠征した際にも、沙摩柯(しゃまか)という胡王の武将が随行しています(史実を忠実に記録した正史には登場しませんが)。
物語的に脚色された三国志演義やドラマなどでは度々表現されますが、中国北方は馬の産地であり、北方の馬はみな駿馬(しゅんめ)とされています。足が速く体力もあり、関羽の愛馬として描かれるかの有名な「赤兎馬(せきとば)」もまた、元々は中国北方の西涼軍の将軍呂布(呂奉先)の愛馬だったという設定です。
この前提を元に、前述の北方少数民族による「永嘉の乱」を深堀してみましょう。
いくら家督争いで晋政府が混乱していたからと言っても、そう容易く国が滅ぼされるほど兵力や国力が低下していた訳ではないでしょう。ただし、北方の少数民族は馬を中心とした騎兵戦に長けており、高速での移動・奇襲・撤退が自由自在だったと考えられます。つまり、五胡はその機動力を生かして短期決戦を仕掛け、一気に洛陽や長安といった都城を陥落させることに成功したものと思われます。
司馬一族が建国した晋が西晋と呼ばれる理由とその後
前段のとおり、大将軍・司馬炎が「晋」を建国し、初代皇帝に就きました。
各種文献では「西晋」と記載されることもありますが、これは歴史書上の区別であり、別の国が存在したわけではありません。晋は永嘉の乱によって滅ぼされ、一部の司馬一族が南に逃げ、かつての呉が治めていた江南付近で再び「晋」国を再興したため、その区別として、司馬炎が建国した晋国を「西晋」、永嘉の乱以降の晋国を「東晋」と区別しています。
ちなみに東晋を建国したのは司馬睿(しばえい)です。司馬睿は、司馬懿の弟・司馬馗(しばき)のひ孫にあたる人物で、317年に即位し皇帝となりました。かつて孫権が治めていた「呉」も東呉と呼ばれていたように、地理的に南方であっても東晋と呼ばれています。
三国志の物語には、このような「のちに変化する」国名が多く存在しており、例えば劉備が治めた蜀は「西蜀」(単に地理的に西にあったから)と言われたり、「蜀漢」と呼ばれたりすることがありますが、これも後の10世紀頃に「前蜀・後蜀」という国ができたから、その区別のためと言われています。
そんな司馬睿が建国した東晋。
永嘉の乱によって、命からがら逃げ延びた亡命的な政権ではあったものの、東晋が滅亡するのはなんと西暦420年。実に103年も存続することになり、司馬一族による国家のなかでは最長となりました。東晋国がそこまで長期的に存続できた背景には以下の要因などが挙げられます。
- 長江など自然の要害があり攻めにくい地勢だったこと
- 東晋の要職が司馬一族だけでなく地域の豪族も管理したこと
- 八王の乱のような大規模な内乱が起きにくかったこと
322年に司馬睿が他界したあとも、その息子司馬衍(しばえん)が即位するのにあたり、大きな混乱は起こりませんでした。ちなみに、司馬衍が皇帝に即位したのはなんと1歳の時で、当然政(まつりごと)を行う能力はないため、豪族の補佐によって政治が運営されたことも、内乱の抑止に一役買ったと言われています。
その後、420年に宋(南朝宋)の初代皇帝劉裕(りゅうゆう)が皇位を簒奪、103年続いた東晋は滅亡することになりますが、三国時代の始まりである220年ごろから、後の「隋」が再び中国を統一する589年ごろまでの約360年近く動乱が続くことになります。この頃はすでに「南北朝時代」と呼ばれ、北と南に分かれた状態が約170年ほど続いたのち、北方の「隋」が、南方の「陳」を滅ぼしたことで中国全土を再び統一することになりました。
三国時代からの変化を時系列でまとめると次のようになります。
- 三国時代(220〜280年)
呉の討伐を経て三国統一を果たし三国時代は終了。 - 西晋・東晋時代(265〜420年)
司馬炎による西晋建国から永嘉の乱を経て東晋が滅びるまで。/li> - 南北朝時代(420?589年)
東晋が滅びて南朝(宋・斉・梁・陳)と北朝(北魏・東魏・西魏など)が対立。西魏から禅譲された隋が南北統一を果たす。
これだけ世界中で知られている三国志は、実は中国史のなかでも最も短い期間でした。なお、三国が統一されたあとも北方・南方で英雄たちが割拠する動乱の時代は300年近く続き、隋が再び中国統一するまでは多くの戦が繰り返されました。
これらを踏まえて学べる教訓としては、大きな政権や組織を運営する際、自身の意見に同意してくれる身内やイエスマンばかりを登用すると、結果的に混乱や反発を招きやすいという点です。これは現代社会においても同様で、自身の意にそぐわなかったとしても、そうした意見を持つ人を重用することで、組織の健全性や柔軟性を保ち、意思決定の偏りを防ぎ、長期的に安定した運営が可能になることでしょう。
まとめ
- 三国志は古代中国の三国時代(220〜280年頃)を背景に三国統一までを描いた物語。
- 魏・蜀・呉の三国鼎立から覇権を巡り争う人間模様が見どころ。
- 結果的に三国を統一したのは、魏から王位を簒奪して晋を建国した司馬一族。
- 初代皇帝・司馬炎の没後は身内内で後継者争いが勃発し内政は混乱を極めた。
- その混乱に乗じ、五胡(匈奴・鮮卑・羯・?・羌)が結果的に晋を滅ぼす結果に。
- 永嘉の乱から逃げ延びた司馬睿が南方で東晋を建国し103年も存続した。
- 東晋滅亡後、南朝と北朝が対立し南北朝時代の幕開けとなった。
- 589年に北朝の隋が南北を統一し中国全土を再度統一した。
- ここから学べる教訓としては、身内なかりを登用すると混乱や反発を招きやすい。
- 意見が異なる人も重用することで組織の健全性や柔軟性を保つことができる。
- ▼オリジナルTシャツなら
- Tplant - オリジナルTシャツ作成・Webでデザイン
- ▼関連記事
- 【文字の誕生と進化④】漢字はどのようにしてできた?
- 【印刷の歴史1】印刷技術は木版からはじまった