印刷の原点とは?
印刷とは、加工した版にインクをつけ、紙や布などに転写する技術全般のことを指します。写真や布製品のプリント、さらにはお札など、印刷物がなければ世の中が回らないといっても過言ではないほど、私たちの生活にとって欠かせないものです。
印刷技術は常に進化し続け、最近では安価なものであれば3万円程度で手に入る立体物を印刷する3Dプリンターをはじめ、ロボットアームを用いて立体の表面に印刷していく技術や特殊シートを立体物に熱を加えながら貼り付ける仕組みなど、様々な技術が日々研究されています。
そんな印刷の原点は諸説ありますが、今回は日本における印刷技術の発端ともいえる木版印刷についてお伝えします。
そもそも印刷技術の原点は、紙が発明される以前の中国にさかのぼります。
今から3000年以上昔、中国では大切なおふれが出される際に本物と見分けるために竹を利用していました。文章を書いた竹は割符(わりふ)と呼ばれ、2つに割り、ひとつは王様、もうひとつは相手に渡し、それが合致すれば本物だとわかるようにしていました。
2世紀頃になると文章の量が増えてきたため、割符の代わりに
ねんどで文書の封をして、その上に「はんこ」を押すようになったのです。
現在の日本でも使われている「割印」ですね。
その後、紙の原点である植物などの繊維を薄く平らに形成したものが発明され、
ハンコの技術が発展して版画になり、同じ絵画や文字情報を伝えることが可能となりました。
まさにこれが木版印刷の原点であり、孔子の経典や菩薩像を普及させるために大量の刊行物が必要となったことがきっかけで、
木の板に文字や絵を彫った版で同じものを複製する「木版印刷」が発展したのです。
仏教の伝来ともに印刷技術を得た日本
日本における木版技術の伝来は6世紀から7世紀の飛鳥時代。
中国大陸から仏教や製紙の技術とともに、木の板に文字を彫って、
墨一色だけで摺った「文字木版」が伝来したといわれています。
開版年代が判明している現存する印刷物の中で世界最古とされるのは、8世紀中ごろに作られた仏教経典「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」が法隆寺に収められています。
藤原仲麻呂が引き起こした恵美押勝の乱により大勢の死者が出てしまい、それを悼んだ称徳天皇が供養のために木製の小さな三重の塔が100万基作られ(百万塔)、その中に百万塔陀羅尼が収められたのです。
称徳天皇のご慈悲があったことで日本での木版技術が発展したといえますが、200年間において印刷が行われた形跡はないそうです。その後11 世紀初頭には権力を握った藤原氏が大規模な供養を催すために、経典を手で書き写すのではなく手摺りする「摺経供養」となり、木版による印刷が行われたのです。
写経を木版にして印刷する摺経に携わった人数は延べ 6000 人に及ぶとされ、写経の形式をそのまま木版にして印刷した摺経は、経を書き写す係、経の題を書く係、文字の間違いを指摘する係など多くの人が動員されていたようです。
また、平安後期になると経典だけでなく仏の姿を描いて印刷した「摺仏(すりぼとけ)」「印仏(いんぶつ)」が登場し、
木版印刷の技術は「木版画」としても広く行き渡ったのです。
それから時は流れ、16世紀には国外の印刷技法である「活版印刷」が伝わったものの、19世紀末まで木版印刷が主流でした。徳川幕府によるキリシタン禁制も関係していましたが文字や単語ごと版を作り活字を並び替えて様々な文章を作る活版印刷は、版作りの失敗のリスクを抑えることができるものの、当時の日本では挿絵入りの書籍が多く、またひらがなは草書体で書かれていたため、明治時代になるまで木版印刷が用いられていたのです。
なお、独特な構図でヨーロッパの画家たちにも影響を与えたとされている浮世絵は江戸時代に完成したと言われていますが、木版印刷が主流だったからこそ発展した芸術なのかもしれませんね。
その後、日本活版印刷の始祖とされる本木昌造が1857年の長崎県・出島にてオランダからやってきた印刷技術に感銘して研究したことより、活版印刷が発展したとされているのです。
今回は木版印刷をテーマとしているので、お話しはここまで。
活版印刷以降についてはまた別記事で紹介しますので、しばしお待ちください。
普段何気なく使っている技術も、その仕組みや歴史を知ると新たな発見があるものです。
身近なことを調べて、ぜひ知識を得てはいかがでしょうか。