平安時代の女性に本名はないのか?紫式部の本名とは
みなさん、こんにちは!
スタッフbです。
何かと話題になるNHKの大河ドラマ「光る君へ」の放送が1月7日に開始されました。
平安時代を舞台に、美貌と才能に恵まれた光源氏の恋愛遍歴やその子孫たちの人生を描いた、日本最古の長編小説といわれる「源氏物語」を生み出した女流作家の紫式部の半生を描いたストーリー。連続テレビ小説「花子とアン」でオーディションなしでヒロイン役に抜擢された経歴を持つ、主演・吉高由里子さんの平安時代の貴族の美しさが気になるところ。
そんな大河ドラマの原作である源氏物語は、世界各国の30以上の言語に翻訳されているように世界的にも非常に有名な作品です。しかしながら、それを執筆した紫式部という名前は、
通称(ペンネーム)というのが定説であり、本名は不明…。
大河ドラマでは「まひろ」と呼ばれていますが、あくまでも脚本家さんによる創作上の名前となり、本名は現在でもわかっていないのです。過去には「香子(かおるこ、たかこ、こうし)」といった学説もありましたが、あくまでも仮設であり、定説にまで至っていないそうです。
では、なぜ紫式部の本名が不明なのかといいますと、当時の貴族社会において本名は「諱」(いみな)と言われ、
親や夫以外は本名で呼ぶことは禁じられていたのです。
そのため、宮中に仕える際には、本名とは別に女房名(にょうぼうな)という宮中で名乗る名前がつけられました。一般的には父親や夫などの家を代表する者の官職名を用いることが多く、源氏物語が有名になる前の紫式部は「藤式部(とうのしきぶ)」と呼ばれていたともいわれています。
藤式部の名の由来は、父親である藤原為時の名字と役職「式部丞(しきぶのじょう)」となりますが、後に源氏物語で人気を博したため、その登場人物「紫の上(むらさきのうえ)」の「紫」を掛け合わせて、「紫式部」と呼ばれるようになったそうです。
ちなみに、紫式部のライバルのように扱われている「枕草子」の作者である清少納言や和泉式部なども宮中での女房名で、本名もしかり、生まれも生まれた年も亡くなった年も不明なのです。
このように平安時代の中流貴族の女性に関する記録は残っておらず、多くのことが謎に包まれていますが、実際にその時代における女性の地位はどのようなものだったのでしょうか。
そこで今回はジェンダー平等を考えるきっかけとして、平安時代の女性の社会的地位について考えていきたいと思います。
平安時代の女性の社会的地位は複雑
平安時代といえば、日本の歴史の中でも文化や芸術が栄えた時代として知られており、貴族たちは優美で気品あふれる暮らしをしていたと認識している人も多いかと思います。
そんな平安時代は、794年に都が平安京に移されたことから始まり、1185年に鎌倉幕府が開かれるまで、約400年の期間平安時代が続きました。古代から中世への過渡期とも言われ、現在の日本文化のベースになっている日本独自の文化が栄え、ひらがなやカタカナもこの時期に生れたものとされています。
貴族の間で最も重視されたのが教養で、どんなに外見が良くとも、どんなに仕事ができても、よい和歌が詠めなかったり、風情や感情の動きが分からない人は評価されなかったと言われています。
なお、女性においては、後宮(こうきゅう)に仕える女官や貴族の家庭に仕える女性は、家族の重要な一員とされ、教養や礼儀作法を身につけるようになりました。それにより和歌や漢詩で才能を発揮し、「源氏物語」や「枕草子」といった女流文学が生まれるきっかけとなりましたが、女性の表現の場は限られていました。
ちなみに、奈良時代では女性が天皇として即位していたのですが、平安時代ではそのようなことがありません。これまでは皇位継承の制度が整っていなかったことにより、次の男性後継者が即位するまでの中継ぎ役として、暫定的に女性が天皇に即位していたそうですが、皇位継承の制度などが整ったことにより女性が天皇に即位することはなくなり、政治の場に出ることもなくなったのです。
しかしながら、ときは摂関政治の全盛期!
摂関政治とは天皇を補佐する摂政や関白が政治の実権を握っている政治体制のことであり、藤原道長の長女であり、一条天皇の皇后である藤原彰子は2人の天皇の生母として
遺憾なく権限を発揮していたのです。
長く栄えた平安時代に女性が政治を動かしていたことに驚きを隠せませんが、それは一部の皇族の女性だけであり、それ以外では男性中心の身分社会への不満が募っていたことがうかがえます。
今では考えられない婚姻スタイル
なお、平安時代の婚姻スタイルは現代とは異なるもので、時代の流れと共に変わっていきました。
実態に関しては十分に解明されてはいないのですが、平安時代は妻問婚 (つまどいこん)、招婿婚(しょうせいこん)とも呼ばれる形態で、
結婚しても夫婦は別居し、夫が妻を訪ねる
ことが主流でした。
自由恋愛による結婚とはされていますが、相手の顔を知らないまま恋に落ちていたそうです。今では考えられないことですが、当時の女性貴族は扇で顔を隠していたり、すだれのようなもので室内を隠して部屋の中に引きこもっていたため、
男性貴族は女性の顔を見ることができなかったのです。
女性へのアプローチは男性が和歌を送り、そのやりとりが繰り返されるようになってくると、結婚の成立に近づきます。
3日連続で男性が女性の元へ夜な夜な通い続けることで正式に妻と認めた証し
となり、子どもができたら女性の両親の家で育てるのが一般的。生まれた子どもが男の子ならば男親の姓を名乗ることが出来、女の子であれば母方の家の財産を相続していたのです。
このように、平安時代の貴族では母から娘へと財産が繋がっていくのですが、当時の家系図は男性の名前しか残っていないために、紫式部などの女流作家の本名などが不明なのです。
いかがでしたか。
雅なイメージの強い平安時代ですが、もしかしたら日本の男女差別は平安時代ごろに始まったのかもしれませんね。このように歴史を知ることで、現代について改めて考えることができますので、ドラマやゲームなどで歴史を学んでくださいね。