約4500年前に栄えたインダス文明の最大級の都市、モヘンジョダロ。現代のパキスタンに位置するモヘンジョダロ遺跡では、碁盤の目のような街路やレンガ造りの建物、下水システムや巨大な公共浴場などが発掘され、インダス文明がいかに優れていたかを物語っています。
しかしながら、紀元前2500年頃にその姿を現したモヘンジョダロは、紀元前1800年頃には急速に衰退しました。その衰退の理由は未だに解明されておらず、いくつかの仮説が存在します。
今回はその中から代表的な仮説を4つ挙げ、モヘンジョダロ衰退の謎を考察します。
モヘンジョダロとは
モヘンジョダロは、現代のパキスタン・イスラム共和国の南部にあるシンド州のインダス川下流に栄えたインダス文明最大の都市です。インダス文明はエジプト文明やメソポタミア文明と並ぶ最古の文明のひとつであり、河川や地下水などから水を引き、農業物を育てるために田や畑へ人工的に給水・排水する灌漑(かんがい)技術や計画的な都市建設、そして独自の文字を持っていたことが知られており、モヘンジョダロではより高度な都市計画を行っていたことが分かっています。
モヘンジョダロの位置
そんなモヘンジョダロは、紀元前2500年から紀元前1800年頃にかけて繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測されており、その発展には現在南インドに多いドラヴィダ系民族の人々が関わっていたとされています。
都市の名前であるモヘンジョダロはシンド語の「死者の丘」という意味で、地元の人々は古い時代の死者が眠る墳丘墓として恐れて近寄らない領域だったことからこの名前が付けられたとされています。
モヘンジョダロの最大の特徴は、計画的に作られた都市構造。街は碁盤の目のように整備され、下水道システムが存在していました。家屋は焼成レンガで作られ、多くの家には浴室があり、水洗式のトイレや共同のゴミ捨て場と定期的なゴミ収集のシステムなどといった衛生管理が優れていたと考えられています。
なお、モヘンジョダロ遺跡の主要部分は、1920年代にインド考古調査局長官のジョン・マーシャル(John Marshal)の一団によって発掘されました。その後、幾度に渡り発掘調査が行われ、掘り出された都市の一部は修復されながらそのままの姿が残されていますが、発掘調査によって解明された部分は遺跡全体の2割にも満たないとされているほど、困難に直面しているのです。
というのも、モヘンジョダロが位置するパキスタン南部のシンド州は年間を通してほとんど雨の降らない乾燥地帯であり、夏季には気温が40℃を超えることがあり、さらに、7月から9月にかけてはモンスーン(雨季)による影響があることから発掘作業は難航を極めます。
さらに、モヘンジョダロはいくつもの層によって成り立っていることが明らかになってはいるものの、発掘が進むにつれて地下水面に達してしまうため、遺跡の保護と保存状態の悪化防止に関わる懸念があることから1965年の調査を最後に発掘は禁止。これまでの発掘調査では地下12メートルまでしか到達しておらず、赤外線の電波センサーによる調査によって7層に重なっているとされる研究結果もありますが、実際の調査では水の排出や地盤の安定を図りながらの作業が必要となるため、最下層が一体どれほど深く、何を秘めているのかは依然として謎のままなのです。
また、これまで調査では土器や土偶、印章など発掘されましたが、なかでも、最も有名な遺物のひとつは「神官王像」です。1925年から26年に行われた発掘調査で発見されたもので、紀元前2000年から1900年頃に作られたと考えられています。ひげを生やし、豪華な衣服を身にまとった男性を表しているため、宗教的あるいは政治的な権威を象徴しているのではないかと推測されています。
もうひとつの有名な遺物は「踊る少女」です。ロストワックス鋳造の像は、裸の若い女性が片手を腰に置き、もう一方の手を自由に伸ばしている姿を描いています。装飾品を身にまとった女性の像は、当時の芸術や美意識を反映させており、また高度な金属加工技術を持っていたことをも示しています。
モヘンジョダロ滅亡の謎
当時では考えられない高度な技術を持っていたモヘンジョダロですが、数百年のうちに衰退してしまいました。衰退した説はいくつかあり、黒いガラス質の石や不可解な遺体の発見から核によって滅亡したとするトンデモ論もありますが、代表的な説には、アーリア人の侵入、森林伐採、地殻変動、気候変動の4つがあげられ、現在においては「地殻変動」と「気候変動」による環境の変化が注目されています。
アーリア人侵入説
これまでは、アーリア人の侵入によって滅亡したという説が有力視されていましたが、アーリア人が侵入する前にモヘンジョダロは廃墟となっていたという研究結果が発表されたことにより、アーリア人侵入説は完全に否定されています。
森林伐採による環境破壊説
モヘンジョダロではレンガを焼くために大量の木材が使用されたと考えられており、過剰な森林伐採が乾燥化を招き、農地に塩害を引き起こした可能性があります。実際に、現在においてもこの地域では塩害が進行していることから、この説は否定できず、確固たる証拠がないために仮説の域に留まっています。
地殻変動による河川交通の損失説
約4000年前にインダス川の流路が変わり、これが河川交通に致命的な影響を与えたという「河流変化説」があります。モヘンジョダロが栄えた地域は、インドプレート、アラビアプレート、ユーラシアプレートという3つのプレートが交差する場所に位置し、世界的に見ても地殻変動が頻繁に起こる地域です。この地域では内陸直下型地震が度々発生しており、2005年のパキスタン地震は甚大な被害をもたらしました。
当時の断層変位に関するデータはないものの、もしインダス川の流れが変わったとすれば、農業や商業活動に依存していた都市にとって大打撃となり、最終的には都市を維持することが困難になったと考えられます。
気候変動説
花粉分析の結果、約4700年前以降にヒマラヤの気候が冷涼化し、冬の積雪量が増加したことが明らかになりました。その一方で、南西モンスーンは弱まり、夏季の降水量は減少したのです[1]。つまり、夏季は雨が少なく乾燥しますが、春先はヒマラヤの融雪によってインダス川は水量を増し、広大な流域で氾濫が起きていたと推測されます。この気候を利用した氾濫農耕、具体的には、水が引いた秋に種を播き、冬に小麦や大麦を収穫する農耕が、インダス文明の初期農法でした。
ところが、約4200年前に起きた地球規模の気候変動によって乾燥化が進みました。4.2kaイベントと呼ばれるこの気候イベントは、当時の文明に深刻な影響を及ぼしたと言われています。事実、古代エジプト文明、長江文明はこの時期に衰退しており、インダス文明もこれをきっかけに衰退したという説があります。
しかし、4200年前のモヘンジョダロは繁栄の絶頂期にあり、この説とは矛盾します。もともと夏の降雨に頼ることができず、冬作物中心の農耕を発展させてきたインダス文明においては、4.2kaイベントの影響は限定的だったのかもしれません。
また、最新の研究によれば、4.2kaイベントの影響はこれまで考えられていたよりも弱く、特筆すべきものではなかった可能性があるそうです[2]。
上図は4200年前の気候変動(乾燥-湿潤)の分布図ですが、これを見る限り、4.2kaイベントによる気候変動は局所的で、地球規模で起きたものでは決してありませんでした。インダス川流域およびインダス川の水源にあたるヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の境界付近については、ほとんど影響を受けなかったことが確認できます。
3800年前以降にインダス文明は衰退期に入ります。花粉分析の結果から、この時期のユーラシア大陸は再び温暖期に入っていたことが分かっています。また、3900年前から3700年前にかけて、夏モンスーンが激化していたことが明らかになりました。夏モンスーンの激化によって考えられることは、大洪水の発生です。
近年でも、パキスタンでは2010年7月下旬と2022年6月中旬にモンスーンの豪雨による大洪水が発生していおり、同規模の大洪水が当時のモヘンジョダロで発生していたとすれば、簡単には再建できないほどの深刻な被害を受けたでしょう。また、夏の降雨の増加により、河川流域でなくても安定的に作物を収穫できていた可能性もあります。大洪水により、人々はモヘンジョダロを諦め、インダス川流域から離れた場所に少しずつ移動していったのではないでしょうか。
2022年のパキスタン洪水
以上のことから、モヘンジョダロ衰退の主な原因は、3800年前前後に起こった気候変動だと考えられます。
ただし、多くの消滅都市がそうであるように、単一の要因ではなく、複合的な要因によってモヘンジョダロは衰退したと考えるのが妥当かもしれません。気候変動や地殻変動による自然環境の変化や、森林伐採などの人間活動による環境破壊によって、都市を維持するのが少しずつ困難になり、夏モンスーンの激化が決定打となり、モヘンジョダロが放棄されたのではないでしょうか。
モヘンジョダロ遺跡保存の問題
このように、多くの謎に包まれたモヘンジョダロは、インダス文明を解明するための重要な遺産です。1980年にユネスコ世界遺産に登録され、パキスタン政府とユネスコによって保存計画を実施していますが、その保存状態は現在さまざまな問題に直面しています。
自然環境が与える影響
モヘンジョダロの建物や構造物を支える建材は、強度と耐久性に優れているレンガで作られています。当時の高度な工芸を示すものでもありますが、4000年以上の時を経たものは脆くなっているのが実状であり、かつての発掘調査によって掘り出された部分はパキスタン南部の強烈な日光やモンスーン期の集中的な降雨などによる風化や浸食、さらには地下水による塩害によって脅かされています。
観光客や現地人が与える影響
モヘンジョダロ遺跡は世界遺産であるために、毎年多くの観光客が訪れます。しかしながら、遺跡のレンガはとても脆いため、観光客が古い壁に触れたり寄りかかったりすることによって損傷を引き起こす可能性があります。また、近年に起こった大洪水では、壁が倒壊ししたりしつつも現地の被災者などの一時宿泊施設として使用されていることもあり、遺跡としてどのように保存していくのかが問題となっています。
保存策としては、かねてよりモヘンジョダロ遺跡を全て埋め戻すといった案があります。これは露出したレンガを塩害などから守るためであり、埋め戻すことで土がバリアの役割を果たし、レンガの腐食を遅らせることが期待されています。ですが、この案には賛否が分かれており、埋め戻すことで物理的な保存はできるものの、埋め戻された状態では観光や研究が制限されるため、遺跡が持つ文化的かつ教育的な価値が損なわれる可能性があると懸念されています。また、埋め戻す際の手順や技術が正確でなければ、逆に遺跡に損傷を与えるリスクもあります。現代の技術が進化しつつある中で、埋め戻すことが最善の策かどうか、慎重に検討が必要とされています。
このように、多くの謎に包まれたモヘンジョダロ遺跡は、その解明よりも保存が重要視されています。今後の技術の発展により露出した遺跡を保存する方法が見つかるかもしれませんが、約4000年の時を経て伝わるインダス文明の歴史を消滅させることなく後世に伝え、その解明が進むことを期待しています。
脚注
- 安田 喜憲, インダス文明の盛衰と縄文文化, 1995-08, p.222-235. https://www.jstage.jst.go.jp/article/proer1988/23/0/23_0_85/_pdf
- Nature Communications, The 4.2 ka event is not remarkable in the context of Holocene climate variability, 2024-10-08, https://www.nature.com/articles/s41467-024-50886-w