今から約3,500年前に地中海東部の地域で繁栄していたフェニキア。現在のレバノン、シリア周辺の地中海東岸地域で、紀元前1500年頃から紀元前300年頃まで存在していたとされる複数の都市からなる古代文明です。
それらの地域で暮らしていたフェニキア人は、巻貝から取れる紫色の染料や建築材として重宝されたレバノン杉などを用いて海上交易を盛んに行い、地中海全域の物流を完全に独占したとされています。
そんな彼らは商取引や契約内容を記録するために文字を作りました。知名度はあまり高くないかもしれませんが、フェニキア文字と呼ばれるこの文字は、アルファベットをはじめとする、現代世界中で使われている多くのの音素文字のルーツとなったとされています。
フェニキア文字にはどのような特徴があり、どのようしにしてアルファベットへ進化していったのか、一緒に考えていきましょう。
フェニキアとは
フェニキアとは、土地の名前などではなく、地中海東岸地域で海上貿易に従事していた人たちの総称で、その語源はギリシア語のフォイニクス(Phoinix)です。これは、ギリシア人が東にあるオリエントから通商目的でやってきた人たちに対してそのように呼んだことがきっかけで、フェニキアと呼ばれるようになりました。
ちなみに、このフォイニクスとは、フェニキア人が拠点としていた都市のティルスで生産されていた赤紫色の染料に由来しているもので、各国の王族の衣料に使われた高貴な色地を染め上げる技術はフェニキア人の専売特許といえるほどのものでした。
そんなフェニキアの始まりは、紀元前13世紀に海の民が地中海東岸地域を襲ったことがきっかけとなります。フェニキア人の居住地は地形が複雑かつ高低差があり、平地が少なかったことによって都市や村落が成立した土地でした。
さらに、近隣にヒッタイトやエジプトがあったことから両国から侵攻を受けていたのですが、海の民の襲来によりヒッタイトは滅び、エジプトは弱体化したことで、元々住んでいたセム語系の3民族(アラム人、フェニキア人、ヘブライ人)がそれぞれ発展しました。
なかでも、シドンやティルスなどに都市国家を築いたフェニキア人は、さまざまなところに交易拠点として植民都市を築き、ギリシアのクレタ文明が衰退すると本格的に地中海交易の覇権を握り、独占状態にしました。
海上交易では、金や銀、調味料やぶどう酒、さらには奴隷などのさまざまなものが取引されていましたが、主に取引されていたのは、フェニキアと呼ばれるきっかけとなった赤紫色の染料と高級木材として珍重されたレバノン杉です。
この赤紫色の染料とは上でお伝えした通りですが、地中海沿岸に生息する巻貝から採れたものとなり、この貴重な染料で染め上げられた織物は高貴と権力の証として希少価値のある交易品でした。
また、レバノン杉は現在のレバノンの国旗にも描かれているように、当時のレバノンの特産で、フェニキア人の高度な造船技術によって作られていた商船もレバノン杉を使用されていました。腐りにくく、香りのよい木であったこと、そしてエジプトやメソポタミアなどの中東では森林が少なかったために、造船や神殿の建築、ミイラの棺や防腐剤などに用いるための交易品として重宝されていたのです。
なお、紀元前12世紀ごろには地中海の物流は独占状態で、全盛期には地中海を越えて、大西洋やインド洋にまでおよびましたが、紀元前9世紀から紀元前8世紀にかけて地中海東岸地域は内陸のアッシリアからの攻撃を受け、紀元前3世紀から2世紀にかけては、アフリカ大陸の北岸で繁栄していたカルタゴがローマと地中海西部の覇権を巡って3度争い(ポエニ戦争)、最終的にはこの戦いによって滅亡されてしまいました。
フェニキア文字の成立と概要
地中海交易を独占状態にしたフェニキア人は数多くの功績を残しますが、特に重要なのが、のちに現代のアルファベットへ発展するフェニキア文字を作り出したことでしょう。
フェニキア文字はセム語系の22文字からなる音素文字であり、フェニキア人より以前からシリア・パレスチナ地域で活動していたカナーン人たちの「カナン文字」をベースに、線状文字に改良して発展したと考えられています。
また、これらの文字体系をさらにさかのぼると、古代エジプトの「ヒエログリフ」から生じた「原シナイ文字」に由来するとされています。
フェニキア文字の大きな特徴は、母音がなく子音のみで構成されている点です。
「母音がないと音が伝わりにくいのではないのか?」とも思いますが、フェニキア語などのセム系言語では主に子音によって構成されていて、母音が記されていなくても文脈の前後関係から母音を補完することができるため、母音を記す必要がなかったのです。
また、フェニキア文字はさまざまな民族との交易をより便利にするために作られたもので、子音のみを記すことで、文字数を減らし、書きやすく、覚えやすい文字体系を作り上げたことに由来しているとも考えられます。
文字の一覧
以下はフェニキア文字の一覧となります。
文字 | 文字名 | 意味 | 発音 | 対応するギリシア文字 |
---|---|---|---|---|
𐤀 | アレフ | 雄牛 | ʼ | Α α |
𐤁 | ベト | 家 | b | Β β |
𐤂 | ギメル | ラクダ | g | Γ γ |
𐤃 | ダレト | 扉 | d | Δ δ |
𐤄 | ヘー | 窓 | h | Ε ε |
𐤅 | ワウ | 鉤 | w | Υ υ |
𐤆 | ザイン | 武器 | z | Ζ ζ |
𐤇 | ヘト | 柵 | ḥ | Η η |
𐤈 | テト | 車輪 | ṭ | Θ θ |
𐤉 | ヨド | 手 | y | Ι ι |
𐤊 | カフ | 掌 | k | Κ κ |
𐤋 | ラメド | 突き棒 | l | Λ λ |
𐤌 | メム | 水 | m | Μ μ |
𐤍 | ヌン | 魚 | n | Ν ν |
𐤎 | サメク | 魚/柱 | s | Ξ ξ |
𐤏 | アイン | 目 | ʿ | Ο ο |
𐤐 | ペー | 口 | p | Π π |
𐤑 | ツァデ | パピルス | ṣ | Ϻ ϻ |
𐤒 | コフ | 針穴 | q | Ϙ ϙ |
𐤓 | レシュ | 頭 | r | Ρ ρ |
𐤔 | シン | 歯 | š | Σ σ |
𐤕 | タウ | 印 | t | Τ τ |
アレフは「牛」、ベトは「家」という意味となりますが、これはフェニキア人が信仰していたバアル神のトーテムが牛の頭だったことが由来となっているそうです。
フェニキア文字から発展した音素文字
フェニキア文字は、主に現在のレバノン周辺の地中海東岸地域のシドンやティルス、ビブロスなどの主要都市国家にて用いられていましたが、フェニキア人の商業ネットワークを通じて、他の文化や言語圏に広まりました。
22文字の子音から成り立つシンプルなフェニキア文字は、学びやすいという利点があったことからさまざま文化や民族の言語に適用されていったのでしょう。
各地域に伝わったフェニキア文字は、いくつかの主要な音素文字へと発展します。
その一つが古代オリエントの遊牧民であるアラム人によって生み出されたアラム文字です。アラム文字は後にヘブライ文字やアラビア文字へと発展しました。
また、入植都市のギリシアでは、A、E、O、Y、Iの5つのフェニキア文字を母音を表す音素文字に転用するなどの改良を加え、ギリシア文字を生み出しました。後にギリシャ文字はラテン文字へと発展し、現代のアルファベットとなったのです。
フェニキア系文字の対照図
左から、ラテン文字・ギリシア文字・フェニキア文字・ヘブライ文字・アラビア文字
このように、フェニキア文字はそれ自体の知名度は低いものの、歴史上の重要な役割を果たした文字なのです。個々の文字が特定の音を表す音素文字という概念を確立させたことは、文字体系の革新といっても過言ではありません。
まとめ
今回はアルファベットのルーツともいわれるフェニキア文字についてお伝えしました。
現在のレバノンやシリア周辺で暮らしていたフェニキア人は、優れた航海技術と盛んな商業活動で地中海全域に交易ネットワークを築きましたが、彼らが有能であったからこそ22文字の子音から成り立つ音素文字のフェニキア文字を作り出すことができ、そして貿易を通じてさまざまな地域にフェニキア文字を広めることができたのではないでしょうか。
フェニキア文字がギリシア文字に影響を与え、それがラテン文字に発展したというように、文字の歴史を知ることは、世界の繋がりをより深く理解することができます。ぜひこれをきっかけにして、さまざまな文字の歴史を学ぶことで新たな知識を得てはいかがでしょうか。