三国志時代の結婚

英雄の復讐が生んだ結婚ラッシュ 夷陵の戦い前夜の「呉」建業の異常

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三国志好きの人なら誰しもショックを受けたであろう英雄・関羽が討たれた「樊城の戦い」。

西暦219年、荊州を巡る攻防の末、蜀の名将・関羽が息子の関平と共に呉の武将「潘璋(はんしょう)」によって捕らえられ、そして同じく呉の武将「馬忠(ばちゅう)」によって斬首されてしまいました。

関羽と言えば、三国志の主人公とも言える蜀漢の王「劉備」の義弟であり、劉備・関羽・張飛の三兄弟の存在は、三国志を知らない人でもある程度は聞いたことがある名将。横浜中華街をはじめ、全国各地にある「関帝廟」が武将関羽をまつっている廟であることを考慮しても、日本でもその知名度は計り知れません。 そんな名将関羽もまた、激動の三国時代のなかで最期を迎えるわけですが、当然義兄弟が討たれたことで激怒した劉備と張飛は報復として、80万(史実では3〜5万とも)もの兵力を呉に向けました。この出兵がのちの「夷陵の戦い」へとつながっていくわけですが、そんななか戦場から遠く離れた呉の都・建業では、大きな戦に備えた準備ではなく、なんと「結婚ラッシュ」という奇妙な現象が起っていました。

英雄の死と復讐心が、なぜ呉の人々の婚姻を急がせたのか。。。 その背景には、三国時代の裏側にある社会制度と人々の切実な生存戦略があったのです。 今回は、そんな当時の生存戦略の裏側と時代背景について詳しく見ていきましょう。

呉の大都督「呂蒙」独断で関羽を斬首したという誤解

関羽の死については、しばしば「呉の大都督・呂蒙(りょもう)が独断で関羽を斬首した」と語られることがあり、三国志ドラマでもそのような演出が多くなされています。劇中でも、関羽と呂蒙は因縁の間柄として演じられておりますが、史実をていねいに紐解くと、関羽は荊州を足掛かりに曹魏へ北伐を実施、呂蒙は呉の大都督として荊州奪取作戦の実行者だっただけに過ぎず、両英雄同士の私怨は物語的な演出。陳寿の『三国志』蜀書・関羽伝によれば、呂蒙が独断で関羽を斬首したわけではなく、孫権の命により処刑されたというのが史実に近いようです。

なお、三国演義のなかでも関羽は常に呉を「鼠輩(そはい)の輩」と見下していたほか、呂蒙のことを「呉下阿蒙(ごかのあもう)」と侮辱したりと、何かとプライドの高さが際立って描かれています。こうした態度が、呉との溝をいっそう深めることになるのです。そして、トドメとなったのが呉の当主孫権の縁談(孫権の子との関羽の娘の婚姻話)を関羽に持ち掛けた諸葛瑾(しょかつきん:諸葛亮の実兄)に対して

「虎の娘を犬の子にはやれるか!」

と断ったことで呉王の怒りを買い、取り返しのつかない対立へと発展してしまいました。

これらも物語的な脚色ではありますが、関羽の存在は呉にとって政治的にも軍事的にも大きなリスクだったことは間違いなく、孫権による関羽捕縛後の斬首という処遇決定は、総合的な政治判断の結果だったわけです。よって、大都督呂蒙の独断だったというのは誤りと考えてよいでしょう。

蜀による呉討伐開始

関羽が戦死した知らせは、蜀の敗残兵によって劉備の元に知らされることになります。

呉は、関羽の処刑について「魏と歩調を合わせた行動だ」ということをアピールするために関羽の首は曹魏に送りましたが、関羽と曹操はかつての旧知の間柄。史実においても、曹操は関羽の首を手厚く葬らせたと記録されています。そこには旧知の間柄としての感情がそうさせたのか、もしくは蜀からの直接的敵意を和らげる配慮だったのか、そのあたりは明らかではありませんが、劉備の怒りの矛先が曹操に向くことはありませんでした。

話は蜀に戻りますが、生死を共にすると誓った三兄弟の次兄が呉によって討たれたとなれば、当然長兄劉備は「義兄弟の仇討ち」と称して呉の討伐を決断します。劉備のまわりに使える文官武将の多くは、あくまで北の曹操に向かうべきと諫めましたが、のちに末弟である「張飛(ちょうひ)」も部下の張達(ちょうたつ)と范強(はんきょう)に暗殺され、その両名が呉に投降したことから、呉への討伐判断が決定打になってしまいます。

劇中で劉備は「孫権めに両腕をもがれた」と悲痛な叫びをあげ、義兄弟を失った絶望と報復の怒りを全身で表現するほど、義の主君とは思えぬ感情剥き出しの振る舞いで呉の討伐を命じます。こうなるともう、軍師である諸葛亮でも止めることができなくなりますが、関羽・張飛は三兄弟という枠組みを越え、国家の両翼と見なしていた劉備の本心を象徴する言葉でもあったのです。

早い行軍と徴兵を恐れた呉の民が取った行動

血気盛んで復習に燃える劉備ですが、実際の呉への討伐は関羽が処刑されてから2年後となる221年夏ごろになりました。時系列としては

  • 219年:呉が荊州を奪取、関羽が処刑
  • 220年:曹操死去、息子の曹丕が魏を建国
  • 221年初:劉備が蜀漢を建国し皇帝に即位
  • 221年春:張飛が?中(ろうちゅう)にて暗殺
  • 221年夏:劉備が呉討伐軍を起こす

つまり、関羽の死からおよそ2年後、劉備は正式に「皇帝」となってから呉へ進軍しました。

ただし、約2年ほど経過してもその怒りの矛先は鈍ることなく、呉の領内に入ってからは80万もの大軍で次々と拠点を制圧し、呉の都である「建業(今の南京市)」まで一気に侵攻していきました。その進軍は冷静な戦略というより、復讐の感情に支えられた強行軍だったとも指摘されており、建業を中心に呉の領内全域に緊張が走りました。

劇中では「劉備が呉の城を落とすたびに蜀の法を発布し、租税制度を蜀仕様に全面転換した」という演出もみられ、呉の孫権も「弔い合戦ではなく明確な侵略である」と漏らすほどリアルな様相が色濃くなっていきました。名目こそ関羽・張飛の仇を討つ弔い合戦でしたが、皇帝を称したばかりの蜀が大軍を率いて国境を越え、呉の要地に迫るその姿は、もはや一国による本格的な対外戦争にほかなりませんでした。

そんななか、呉の領内にも異変が起こります。

領内全域に開戦の緊張が高まるなか、呉国内では当然「徴兵が強化される」という噂が街中に広がりました。特に若い未婚男性は優先的に召集対象になっていたことから、若者たちが次々と結婚を急ぐという異例の事態が起こりました。演義などでは、その背景の詳細部分には触れられていませんが、家族を持つ者は扶養義務を理由に召集が後回しにされる文化があったためと言われており、街では縁談が急増し、偽装とも言える簡略化された婚礼が相次いだとされています。

ただ、実際には史実に結婚ラッシュの明記はなく創作の可能性はありますが、建業では立て続けに敗戦の知らせが届いていたことから、その度に民衆だけでなく、文官武将が不安に包まれていたことは容易に想像できる部分です。結果的に、222年の夷陵の戦いで劉備軍は大敗を喫し、建業までは到達できなかったのが事実ですが、関羽という英雄一人の処刑によって、その余波が最前線の兵士だけでなく、庶民の心情にまで及ぶことになったという演出は、この時代の持つ悲劇性を物語っているのかもしれません。

結婚がなぜ徴兵対策?〜当時の中国文化と生存戦略

前段でも軽く触れましたように、徴兵において「家族を持つ者が後回しにされる文化があった」という点について掘り下げて見ていきましょう。

当時の中国文化において、既婚者は兵役免除だったということは一切ありません。

後漢末から三国時代にかけて、戸籍は課税と兵役を管理する重要な基盤だったことから、国は「戸」を単位として家族構成や男性労働力を把握しておりました。つまり、独身男性は当然戦争に駆り出されやすいのですが、家庭を持つ者は農業生産や扶養の責任を担う労働力という位置づけであったため、必ずしも徴兵が最優先ではなかったのです。

戦においては、兵糧の有無が戦果において非常に重要な要素となります。

当然国は兵力も強化したい一方、一方で安定した兵糧供給も欠かせないので、農業生産の担い手をすべて戦場に駆り出すわけにはいかないのです。よって、婚姻して「戸」を持つことで戦場へ優先的に徴兵されることを避け、これまでの日常である農業従事に生存の可能性を賭けたのです。ある意味、戦場での戦略が兵法であるのに対して、庶民の生存戦略が結婚だったのです。

建業の結婚ラッシュは、当然男女間の恋愛の高まりではなく、国家と個人のせめぎ合いが生んだ現実的判断だったと言えるでしょう。

一人の英雄の死が一般庶民の人生までも揺さぶった悲劇性

これまでお伝えしたように、英雄関羽の死は劉備の怒りを呼び、やがて夷陵の戦いへと発展していきます。開戦の報に接した孫権は、劇中では「ついに来たか・・・」「諸葛亮でも劉備を止められなかったか」と言葉を漏らしていることから、孫劉連盟の名のもと、互いの衝突は避けたかったというのが本音だったのかもしれません。

もともと孫家と劉家は、共に曹操へ対抗するために同盟を結んだ関係(孫劉連盟)でした。

しかし荊州をめぐる対立、関羽の処刑、そして張飛の死と続いた不幸が、両国の溝を決定的なものにしてしまいました。こうして怒りと疑念が積み重なって、両国の戦いの流れを止めることができなくなってしまったわけですが、張飛の死は呉にとっては完全に貰い事故で、張飛の首を持って孫権に拝謁した張達と范強は、その場で

「この疫病神めが!」

と怒鳴りつけられその場で処刑されていることからも、物語的演出であったとしても、呉が関羽を処刑したことに対しては、一定の後悔がたったものと考えられます。呉の官僚たちにも慎重論はあったようですが、呉の外交官であった諸葛瑾や張昭も「庶民が結婚を急ぐような混乱」が起こることまでは予想しておらず、この劉備による弔い合戦によって庶民たちの人生も翻弄されていたことは知る由もありませんでした。

英雄に対する復讐が生んだ建業の結婚ラッシュは、戦乱の時代がいかに個人の運命を飲み込むかを象徴する出来事だったと言っても過言ではないのです。

ちなみに、221年初に進軍を開始して222年夏の夷陵の戦いで大敗した劉備は、命からがら白帝城に逃げ込み、そこで力尽きるようにして病に伏しました。夷陵の戦いでは、夏の暑さを回避するために森に入ったことで、呉の大都督「陸遜(りくそん)」の火攻めに遭いましたが、大火に包まれた夷陵の敗戦が劉備自身の心身にも深い傷を残してしまいました。その後、223年春に白帝城にて劉備は最期の時を迎え、三兄弟全員がこの世を去りました。

まとめ

  • 関羽の死が三国鼎立(さんごくていりつ)の均衡を崩した。
  • 関羽の死がきっかけで長きに渡って継続した孫劉連盟は決裂。
  • 劉備は周りの反対を押し切り「仇討ち」として呉討伐を決断。
  • 80万の大軍や進軍が異常に早かったというのは物語的演出。
  • 呉では「結婚ラッシュ」という現象が語られる。
  • 当時の国家は徴兵も農業も両立しなければならなかった。
  • 庶民にとっての生存戦略は「婚姻」。
  • 夷陵の戦いで蜀は壊滅的敗北、結果的に呉の大勝。
  • 英雄の死は国家と庶民の運命をも翻弄した。
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マニアックなイベントでオリジナルTシャツを見て回るのが趣味な、なんちゃってアスリート。増え続ける体重と日々戦い、行き先問わず走ることを目的とした旅行系ダイエットランナーでありながらも、最近は筋肉の魅力に目覚めてしまい、減量どころか絶賛増量中。カロリー収支を気にしつつも、大好きな唐揚げだけは止められない!